2017年12月31日日曜日

2017年の映画ベスト

年々、面白味に欠けるリストになってしまう映画の年間ベスト。
(今年、劇場で観た新作が対象。順番は、観た順序。)

日頃の暮らしにはあまり感じることのない(ただ自覚がないだけかも)落ち着き、というか老いというか、成長はもう難しいとて成熟であってほしい、だけどやっぱりいざなってみると「こんなもんか」でしかない、年をとる。

年々、結構すらすら素直にリストアップできるようになっていて、その結果並んだ映画のタイトルを眺めて「面白味に欠ける」と自ら評するということは、いろいろと披瀝しちゃってる気がしなくもない。

これまでは作為的に「面白味」を演出(捏造)してきたのか?
ただ単に趣味が随分と凡庸へと着地しつつあるだけのか?
いまだに自らの趣味に非凡なる感度を求めてしまっているのか?

きっと、そのどれもが当てはまる。ただ、それだけ。

リストの中身をいじりたくないという今の気持ちを尊重しつつ、往生際の悪い凡庸回避メンタルの足掻きも可愛がってやるとして、今年は見せ方(括り方)で茶を濁す。


「僕の好きな映画監督の新作」部門

*パリ、恋人たちの影(フィリップ・ガレル)

*ブラインド・マッサージ(ロウ・イエ)

*ラビング 愛という名前のふたり(ジェフ・ニコルズ)

*わたしは、ダニエル・ブレイク(ケン・ローチ)

*未来よ こんにちは(ミア・ハンセン=ラブ)

*パーショナル・ショッパー(オリヴィエ・アサイヤス)

*パターソン(ジム・ジャームッシュ)

*グレイン(セミフ・カプランオール)

*希望のかなた(アキ・カウリスマキ)

フィリップ・ガレルはいっつも同じような映画しか撮らない気がするけど、その「同じような」のが同じように好きなので、やっぱりいつ観ても懐かしくて、その懐かしさが好きな者にはたまらない。そうした郷土愛的偏愛は、カウリスマキとかジャームッシュも同様で、この二人は本当に毎回(特に最近)絶対的な普遍のなかに更新を忘れないから感服しかない。別の意味で、とことん誠実に強いケン・ローチは見るたびに鞭撻される。

ミア&オリヴィエも本当、どこまで進化し深化してゆくのだろう。前衛過ぎず、ズレ過ぎない、独立独歩感が唯一無二なのに、親密さを増す作品たち。

ロウ・イエはアップリンクがしっかり見守ってくれているんだけど、ジェフ・ニコルズの『ミッドナイト・スペシャル』が劇場公開ないって、どういうことだよ・・・。それで言うと、劇場未公開&ソフトスルーの女王、ケリー・ライヒャルトの映画って、いつになったら映画館にかかるのか・・・。「Certain Woman(DVDタイトル『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』)」まで劇場未公開って一体・・・。ひと頃に比べれば随分と活況を呈しているように見える外国映画の配給状況だけど、結局本数が増えてるだけな気もする。ビジネスモデルが変わっただけで、それに伴って観客の消費行動も変化し、それを追随した結果本数が増えました、というだけのような気がしてしまう。TIFFで見逃したデプレシャンとボーヴォワは、さすがに劇場での公開あるよね?(特に後者は微妙な気がしてきたので、祈っておく。)

やばい、年の瀬のおだやかな時間(イメージ的にはエンヤ)に愚痴ってしまった。

でも、今年も色々つまらない感をいだきつつもそれなりに参加した東京国際映画祭だったけど、セミフ・カプランオールの新作を観られて、監督の話まで聴けて、グランプリ受賞したから2回目まで(しかもTCXで)観られたので、まだまだ日本における外国映画鑑賞環境も捨てたもんではありません。おそらく。


「みんなも大好き映画」部門

*沈黙-サイレンス-(マーティン・スコセッシ)

*たかが世界の終わり(グザヴィエ・ドラン)

*ラ・ラ・ランド(デミアン・チャゼル)

*T2(ダニー・ボイル)

*マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン)

*メッセージ(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

*ダンケルク(クリストファー・ノーラン)

*ブレードランナー2049(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

*スターウォーズ/最後のジェダイ(ライアン・ジョンソン)

なんか、これはこれでなかなか素敵なリストな気がしてきた。

「わたしも結構、映画観たりするんですよ」
「へぇ、たとえば今年はどんな映画がよかった?」
「そうですねぇ・・・」
なんて会話の続きで出てくると、いい感じなリスト。
でもきっと、「あれ?『ムーンライト』は観なかったの?」って流れになる。

『ムーンライト』も好きな映画だったけど、なぜかそんなに残ってないんだよね。
で、意外にも『ラ・ラ・ランド』と『たかが世界の終わり』が妙に残ってる。
両方とも2回観に行ってしまったのだけれど、前者は2回目の方が沁みたけど、後者は1回目の陶酔感が凄すぎたからか2回目はあっさり。

グザヴィエ・ドランは『トム・アット・ザ・ファーム』以外は正直ハマる感じではなかったんだけど、今回は何故かやられてしまいました。ドゥニ・ヴィルヌーヴは実のところ、カナダ時代(って言っていいのか?)の『渦』が一番好きなんだけど、一応あの頃のちょっと癖のある感じはかろうじて保ってて、優等生気味な歪さが垢抜けつつありつつも、まだギリギリ好き。音楽がヨハン・ヨハンソンじゃなくなっちゃったので心配したけど、あれはあれで好かった。

『沈黙』はもう、10年以上前から原作を色んな人に薦めては、「これ、スコセッシが映画化する」と言い放ち続けて来た自分としては、嘘つきにならないで済んだことに、まず安堵。人生で最も長く待つ(本気で)経験をした作品かもしれない。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の素晴らしさは、『マーガレット』の不遇さを生んだものによる贖罪な気もする。だとしたら、悲しいけれど愛おしい償い。

「最後のジェダイ」は断然支持します。別に否定派とか絶対認めないっていう人に抗議するとかの気持ちには全然ならないけど(論争込みで楽しむような存在になってるからね)、何となく「ミッション・インポッシブル」シリーズの流れと自分のなかでは色々重なった。個人プレーからチームプレーへ。明瞭なる敵の偏在から茫漠たる悪の遍在へ。で、両者ともその流れこそが自分にとっては興味深く、面白い。


「本数観てないけど、日本映画」部門

*息の跡(小森はるか)

*夜明け告げるルーのうた(湯浅政明)

*夜空はいつでも最高密度の青色だ(石井裕也)

*散歩する侵略者(黒沢清)

異様にヒットしてた『人生フルーツ』上映館のポレポレ東中野で観た『息の跡』。あそこは、お金の儲け方と使い方が極めて正しい劇場の一つな気がします。

『夜は短し歩けよ乙女』はまだ観られていないのですが、アジカンは特別好きな訳ではないものの、アジカンが主題歌の映画は好きなので、おそらくかなり好きなはず。

日本映画でも生活のための仕事と、人生のための為事を行き来しながら活動できる「作家」が若手にも増えて来て、若手の方がちゃんと自らの牙城を守りつつ、雇われだってそれなりに楽しんだり挑戦したりして、さすが勢いのなくなって久しい社会を生きてきた人間は違うよね、などと思う。しかも、そういうバイオリズムが役者と見事に融和したりして作品がつくられるから、どんなケミストリーが起こるかワクワク感が充満してる。

黒沢清は今年、SKIPシティDシネマ国際映画祭の審査委員長だったから、連日(といっても、今年は3日間くらいしか行けなかったけど)一緒に映画を観た(笑) アットホーム過ぎる映画祭なので、審査員に座席が特に用意されることなく(以前は用意されてたけど)、移動も皆と一緒にバスで。だから、往きも復りも黒沢清と一緒にバスを待つ・・・。そして、ボランティアのおじちゃんおばちゃんは当然、黒沢清のことなんて知らない・・・。実に快適な鑑賞環境。


「その他」部門

*ありがとう、トニ・エルドマン(マーレン・アデ)

*ライフ・アンド・ナッシング・モア(アントニオ・メンデス・エスパルサ)

*ノクターナル・アニマルズ(トム・フォード)

*ジョニーは行方不明(ホァン・シー)

マーレン・アデが好きな映画作家になるかどうかはわからないけど、この映画は確かに独特な力を持っていて、好きという訳ではないけど絶対無視できないものがあった。そういう映画の方が、評価したくなる感覚はよくわかる。

前作『ヒア・アンド・ゼア』もTIFFで観たアントニオ・メンデス・エスパルサ監督の新作は、前作からの着実な歩みに前進を感じさせるというよりも、新たな旅に出て来た報告。『ヒア・アンド・ゼア』を観た時の記事を読むと、今作にも見事にあてはまることばかりで(同じ人の映画を同じ人が観た感想なんだから、当然かもしれないが)、この監督の誠実は相当なものな気が尚更してくる。かなりの地味さゆえに隠れがちだけど、この監督はものすごく新しいことをしている(というか、果敢に挑むことを真剣にやっている)気がする。ただ、巧い「定義」がみつからない挑み方してるから、そういう扱いは受けないし、だからこそ観る側も素直に自分の心に沈潜させられる。

トム・フォードの服は着られずとも、映画なら観られる。が、映画の方の上質感は服のそれ以上かも。しかも、魅惑のラビリンス度は底抜けに天井知らず。

『牯嶺街少年殺人事件』が劇場公開された今年の終わりに、フィルメックスで観たクー・ユールンが出ている映画。彼はいくつになっても瑞々しさが消えない。ヒロイン役のリマ・ジダンも実に魅力的で、役者もスタッフも若干の不慣れさというか、各要素がややはまり切れてない不安定さというか、その落ち着かなさに気づくと何となく落ち着く感じ。

年々少しずつ映画祭への通い方が減りつつあるものの、劇場公開作よりは積極的に観るようにしてたけど、今年はそこまでガツンと来る映画が少なかったような気がする。観賞作品の選び方のせいかもしれないし、心も身体も疲弊したなかで観てたからかもしれないけれど、映画祭という場の苦手感は相変わらずだし、何となく自分のバイオリズムで「観に行く」という動きが実現できない窮屈さはどうしてもある。(だから、チケット買ってても観に行かなかったり、観ないで帰ったりが増えてしまう。)

正直、最近では、「映画館で映画を観ることにこだわる人間」に自分はとことん向いてない気もしてきたりして。というより、最近ではとにかくお金より何より、「時間」を気にしてしまう。あと、健康も(笑)
やっぱり実人生を充実させるのに必要なのは、その二つな気がして、そう考えると映画館に映画を観に行く(ましてや、映画祭なんかに足を運ぶ)というのは、相当なロスに思えてしまうという、映画ファン失格メンタルに頻繁に襲われ、負けつつあった2017年でした。



上記の作品以外でも、好きな映画はいっぱいありました。

『マリアンヌ』も世間的には何故か不発だったけど、『フライト』『ザ・ウォーク』と来て『マリアンヌ』という傑作群を撮り続けている絶好調名匠の過小認知(日本のみならず本国でも)は、謎。

『はじまりへの旅』のアレックス・サマーズ、『ジャッキー』のミカ・レヴィ、『グッド・タイム』のダニエル・ロパンティン。音楽によって作品の好きさが5割増しの大貢献。『20センチュリー・ウーマン』の選曲も安定の気に入り具合。それらの作品はサントラをよく聴いたから、映画本体以上に音楽の存在感がでかい。

アジア映画には本当に全然手が回らなくて、韓国映画とかも全然観られていないけど、『新感染 ファイナル・エクスプレス』(災厄な邦題)には唸りました。ヨン・サンホ監督のアニメ作品を見せてくれたGEORAMA2016は、本当に素晴らしいイベントだったなぁ。年明け早々にあるニューディアー主催のシアターイメージフォーラムでの上映も、実に楽しみ。

ニューディアーによる世界のアニメーション紹介活動も、いまの日本映画界においては極めて貴重な活動のひとつだと思うけど、今年の映画界で最大の注目すべきイベントはやはり、「ほぼ丸ごと未公開!傑作だらけの合同上映会」だったと思う・・・などと書いておきながら、実際には行けてないんだけど(無念)。ただ、その関連イベント(でいいのかな?)である特集上映:アメリカ映画が描く「真摯な痛み」vol.2に先日、ようやく初めて足を踏み入れました!

・・・そして、あらゆることに感動しました。
久しぶりにブログ更新しちゃおうかと思ったくらい。

上映された2作品(『マイ・ファースト・ミスター』、『ドント・シンク・トワイス』)は本当どちらも素晴らしく、「確かな劇場未公開作」としての両作の良作っぷりに、イベントの唯一無二性を情報としてのみならず全身で体感。「劇場未公開」なのに上映される作品というのは大抵、一部のマニアから偏愛される作家性があったり、何かと新しさをウリにして先物買い達に訴求する話題性があったりすることが多いんだけど、今回上映された二作はそうした「パッケージ」で劇場未公開という「名誉」に与った訳でもなく、かと言って語るも聞くも楽しい「不幸」に見舞われた訳でもなく、芯が良いから見落とされちゃったというか見向きもされなかった感のある、愛しき正しい落ちこぼれ。他人に道を譲り続けてたら、結局自分が通れなくなっちゃった、みたいな感じ。

そんなだから、当然「流通」している作品群では味わえない想いにさせてくれる。しかも、このイベントを岡俊彦さん個人で主催してるという事実はとてつもなく凄いんだけど、その偉業感を微塵も感じさせない上映会の空気が実に実にあたたかいし、優しい。「オーディトリウム渋谷」時代は足を運びつつも払拭できなかった苦手意識の記憶が、嘘のように氷解する日曜の昼下がり。上映前のBGMなんかにまで目配せたっぷりで、ニヤリ。本編の字幕とかも本当に見事に練りに練られているおかげで、劇場公開作同様(いや、それ以上)に何ら違和感もなく作品に没頭して鑑賞できる。ブルーレイ上映だったと思うけど、シネマスコープ作品をシネマスコープサイズのスクリーンにばっちり映写。個人なのに・・・というよりも、まさに「個人だからこそ」何一つ蔑ろにせず、何にでもこだわり抜けるという自由さを謳歌している主催者と、その恩恵を全身で浴びられる参加者。こんなにも互恵なイベントは、そう滅多にあるもんじゃない。それはきっと、ビジネスじゃないからかもしれないが、ビジネスとしての成立を前提としないで出発し、実行し、成功している(上映会に参加した人たちが満足しているということを、ここでは成功とする)という事自体、とんでもなく新しい「映画上映のかたち」が出来つつある瞬間に立ち会った気がしたのです。

映画上映のデジタル化の真価にようやく出会えた気がします。

「デジタル化は民主化」的な言説があらゆる分野で語られつつ、実際にそうした動きも其処此処で生じてはいるのだろうけれど、こと映画に関しては、本当の意味での「民主化」なんて起こっているようには感じられず、在るのはせいぜい大衆化だったり低品質化だったりして、懐疑的かつ懐古的になってしまう気分に支配されつつあった自分こそ、封建社会という安楽椅子から立ち上がれずにいただけの受動人間だったのだという猛省と共に、真に価値ある「活動」とはまさにこういうことなんだ!という理想を現実に見るという極めて稀有なる体験をしたように思います。

『マイ・ファースト・ミスター』も『ドント・シンク・トワイス』も、絶対に忘れられない作品になったのは、そうした唯一無二な体験だったからでもありますが、作品自体が語りかける内容もまた、この素晴らしい体験と見事にシンクロするものでした。

自分に真摯であればあるほど、周囲との違和に悩み傷つくことが絶えることはない。そうして傷つき続ける人間は、自分が決して他の存在になれないことを知っているから、誰かを自分と同化させようとはしないし、同化などという手形のやりとりに何ら価値を見出さない。同化したら、手もつなげないし、抱きしめることだったできない。同じじゃない、違う存在だからこそ、見つめられるし、魅せられる。

恋人だろうと友人だろうと家族だろうと他人だろうと、誰かがいることに感謝する。

すべての芸術の真髄は、そういうところにあるのかもしれない。

大切なことを映画の内でも外でも教えてもらった気がする。

映画をいちばん近くに、そして大きく感じた日だった。