2013年5月7日火曜日

マリオ・ジャコメッリ写真展

連休中には映画祭の合間を縫って、いくつかの展覧会にも足を運んでみたが、東京都写真美術館で開催中(終了迫る!5/12迄!)のマリオ・ジャコメッリ写真展には打ちのめされるほどの心服の念で全身が畏怖してしまった。

白、それは虚無。黒、それは傷痕。

写真展に添えられたジャコメッリの言葉。実在感を喪失したかのような「白」の背景は、滅亡でも忘却でもない「無」の世界をたたえている。そこに浮かび上がる「黒」は自然、如何ともし難い眼前の頑然堅固な現実を灯しては、佇み続けてる。しかし、その「強すぎる黒」が放つ躍動に私は心掻き乱され、その向こうに見える深遠なる深淵が今にも魂を吸いつくさんばかりに迫ってくる。こんなにも「動いている」モノクロ写真は見たことがない。それが私のジャコメッリの写真に対する、第一かつ最終印象だ。

写真術の発明により、人間の視覚を「遠近法」に閉じ込めた近代。視点は固定され、中心が設定され、世界の無辺際や流動は切り取り切り捨てられて来た。しかし、ジャコメッリの写真を見ていると、「フレーム」による有限・限定・固定・停止がむしろ、無限の起点に思えてしまう。切り取ったからこそ感じられる「切り取られ(取れ)なかったもの」がフレームの〈奥〉に蠢いている。そして、それはむしろ空間的なものよりも、時間的なものとして内包されている。

以下は、写真展でみかけたジャコメッリの言葉だ。

 それぞれの映像が一つの瞬間であり
 それぞれの瞬間が一つの呼吸の様なものだ。
 一つ前の呼吸が次の呼吸より大切だということはない。
 呼吸はすべて停止するまで次々と続く。

写真はいわば「停止」の芸術だ。それでは、その「停止」によって写真は呼吸を止めたのだろうか。

呼吸を止めた世界、それは我々が肉眼では実際に見ることのできない世界であり、写真の術であると同時に業でもある。こんなにも愛おしい瞬間が、愛おしい視点(視界)がこの世界にあるという喜び。それを永遠にする術。しかし、死んだからこそ生き続けているという業。ところが、ジャコメッリの「停止」には、息を止めたからこそ感じられる内なる鼓動のような心音が聞こえてくる。固定された中心には息が吹き込まれ、やがてそれは動き出す。封じ込まれた流動は、解放されて躍動し出す。セザンヌの絵をみているときのようなバクつく心臓を感じてしまう。

人が風景であり、風景が人である。肖像画の風景、風景画の肖像。

虚無たる白に刻まれる黒は、白紙に記されゆく言葉でもあるのだろう。
生の証としての黒、死への導きとしての黒。しかし、そのどれもが生をも死をも内包してる。